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気付けばハマる、そこは沼。劇団☆新感線を中心にお芝居について好き勝手書き連ねる場所。

処理落ちした感情を1つずつ片付ける【ぎふと朱雀】

ほんとは今回もう書かずに終わるかなと思ってたんですけど、書くというより、残しておかないとって気持ちの方が大きい。

レポでも感想でもなんでもない、ただのお気持ち表明ですよもう。終演後にあんまりみんなでぐだぐだ出来ないこのご時世、お気持ち表明くらいしないとやってらんねえよ。


ほんとに自分で自分の感情を処理するためにお気持ち表明するだけのエントリです。未来の自分のために書いてる。



処理落ちした

なんでこんなエントリ書く羽目になったかって、27日の千穐楽が終わって16時に会場出てから18時回るまで、何一つ言語化できなかったからです。

17時過ぎてからようやく発した一言目が「今日、よかった」ですからね。幼稚園児か。


いろんなコマンドが同時多発的に発生していて、完全に脳が処理落ちしてた。

再起動にも時間かかるタイプのやつ。アップデートしてなかったからね最近…

当たり前だけど、27日以前の公演もサッパリ処理できてない。


ひとつずつ整理してアウトプットしておかないと、わたしは岐阜がなんだったか分からないまま終わってしまう。

去年の岐阜もちょっと自分でわかんないまま当日券で3回入ったけど、エントリが残ってるから辛うじて認識できてるとこあるよね。

だから書きます。未来の自分のために、いま残しておかねばならぬ。


でも何でこんな処理落ちしてんのか、ずっとわかんなかったの。

遡ってみたら、去年も岐阜エントリの最後にも同じようなこと書いてんですよね。

dramatic9ri.hatenablog.jp

読み返しても半分くらいしか納得できてないけど。


ほんと、ねえ、あのね、舞踊を浴びると脳が溶けるんですよ。

溶けてて言語化出来ない間に、次の公演が始まるから、何もわからないまま、また溶けんの。


周りのベテラン朱雀オタクたちが被弾する弾と、わたしが被弾する弾は、たぶん圧倒的に違うんだよね。

去年初めて観たビギナーなんだから当たり前なんだけど。感想聞いててもついていけないあるある。当たり前だよ。

でも肝心の、わたしか被弾してる弾がいったいどこから狙撃されてるのか最後までぜんぜんわかんなくて、いつも朱雀を観ると気が付いたら死んでる。


さすがにこんなに観てんのに「なんかわかんないけどすき」って言うの、悔しいし寂しいじゃん?!

珍しく「通いたい」と思うほど朱雀の公演を観たいと思う、その理由をがんばって自分なりに解釈するよ!っていうだけのエントリです。



早乙女友貴の舞踊を浴びたい

去年の復活公演から今年までの間に明確になったのは、わたしはやっぱり動いている早乙女友貴が見たくて岐阜に通っているのだということ。

これだけは間違いない。


コンディションがどうとか、メイクがどうとか、どの演目だとか、そういうのじゃなくて、とにかく音に合わせて身体を動かしている早乙女友貴が見たい。

その日の調子がよかろうが悪かろうが構わん。(怪我とか体調のアレコレは普通に心配になるから健康でいてください)

あの足運びがすきで、伸ばす手のかたちが好きで、肩の入れ方、首の傾き、重心の移動、どれもぜんぶ心がギュンとなる。


厳密に言うと舞踊に限ったことではなさそうなんだけど、まあ、おおよそ舞踊です。

演技も普通に好きだけど、早乙女友貴を観るために普通の舞台に通うかと言われたら、ちょっと違う。みるけど。みるけどさ。ちょっと違うんだよ。

でも夜桜お七やるよって言われたらたぶん早乙女友貴を観に行くから、やっばりあのひとの舞踊に含まれる何かに被弾してるんだよ。

たぶん練習風景の動画でもギュンとくる。


ここ数年で歌舞伎を観るまで、身体の使い方の好みなんて考えたことなかったんですよ。あるよねそりゃ、好みくらい。

その好みを解説できるほど詳しくないけど、自分の脳がじゅわっと溶ける瞬間は分かるもん。

早乙女友貴の身体表現を浴びるとわたしの脳が溶けるんだ。


それを浴びるには、いまのところ劇団朱雀に来るしかなくて、できるだけたくさん浴びたいから多ステする。

やっぱり、シンプルにそれが1番の理由なんだよなあ。



早乙女太一の舞台表現に興味がある

今回の幕引き公演前半戦を経て感じたことは、わたしは太一さんが舞台の上で組み上げる世界観に興味があるんだなあ、ということ。

与えられた15公演、うち配信7公演に、どんな演目を持ってきて、どんな曲をどんな順で並べて、どんなふうに組み上げるのか、そのパズルに興味がある。

(どの曲を過去いつ演ったか知らないので曲への思い入れはまだそれほどないけど)


「他人からの見え方」「自分の見せ方」をあんなに解っている人が、自分の土俵で一体なにを作りたいのか、何を見せたいのか、気になる。

それを見せられた自分がどう感じるのかが、気になる。

インタビューとかドキュメンタリーとかで示される答えというか、言語表現じゃなくて、作品として表出するモノを観たときに、自分の感情がどう揺れるのか、どう揺らされるのかに興味がある。


これ、絵とか写真集とかにあまり食指が伸びないのは単なる好みだと思うんですよね。

私の持ってる受容体の中で現場感度が高めだったのが舞台だったっていう、ただそれだけ。守備範囲狭くてごめん。


フォロワーさんとも話してたけど、今後、早乙女太一が舞台上で何かをプロデュースするなら、それがたとえ朱雀じゃなくても観るだろうなと思う。

舞台上じゃなかったらちょっとわかんない。

とりあえず祐也くんの配信は観ようね!!!



「にんげん」を感じる

早乙女友貴の舞踊がすきで、早乙女太一の表現が観たいって、そんなこたァ分かってるんですよ。それ以上の何かが分かんないからもだもだしてんでしょうが。

でも分かりきったことをちゃんと分類して明文化しないと、そこに取り残されたこのもやもやが何なのか、分かんないんだよ。


あのね、劇団朱雀、めちゃくちゃ「にんげん」を感じるんですよ。生きてる。


同じ演目も振り付けが毎回違うとか、メイクが違うとか、そういうのじゃなくてさ。そういうのじゃないんだよ。

いや待って、そういうのもあります。そういうのの話はちゃんと演目の話のとこでします。


復活公演と幕引き公演と、あとはfinalの映像くらいしか観てないけど、太一さんの作る舞台って、画としての完成度がめちゃくちゃ高いと思うんですよ。

演者が絵画みたいで、世の中にはこんな美しいひとがいるんだなあっていう。

ちゃんと光と影も計算されてて、いちばん綺麗に見える画が演出されてる感じ。

花魁を観た庶民のおばあちゃんが「天女様…」って呟きたくなる気持ち、今ならよくわかる。人間離れしている。


だからこそ、生身の人間を感じたときの「にんげん」具合がほんとにすごい。

あっ、このひとにんげんだ。って、ハッとさせられる。


それをいちばん感じるのは、サスペンションライトが後ろから照らしてるあの光の帯から抜け出て、舞台際まで近づいて来たときです。

幻想的な光のベールから一歩二歩と踏み出して、突然我々と同じ照明の下に照らされる太一さん。

突然襲い来る「にんげん」感。


それから岐阜の3部。あれはなんて言うか、ギリギリのところで生きすぎている気がするけど、人間の限界を試してるみたいな、あの3部。

練習してきた型を披露するんじゃなくて、持てる全ての力を絞り出してるみたいな、苦しくなるくらいの生命力を感じる舞踊。舞踊?あれは舞踊の枠に収まらなくないか?


とにかくその瞬間がたまらなくて、わたしは岐阜に通ってた。映像じゃなくて、その場で、さっきまで私も浴びてた同じ照明の下で生きるひとを見るために。

それって岐阜にしかなかったんですよ。大阪や東京には無かったんです。



朱雀という背景がある世界

ここまで書いて、ようやく先輩たちから言われ続けてきた「人生」とか「ライブ」って言葉が腹落ちしてきた気がするんだよな。

書くって大事。


とっても当たり前のことなんですけど、劇団朱雀って大衆演劇の劇団なんですよね。

いまさら何を言ってるんだ。

そうなの。当たり前なんですよ。でもそれがどういうことなのか、ちゃんと分かってなかったの。


普通の(普通の?)大衆演劇は観たことがないけど、去年大五郎さんがいらしてた岐阜3部とか、ぎふ葵劇場のみなさんの振る舞いとかを見てると、舞台と客席とがほんとに地続きなんだろうなあと想像している。物理的にも、精神的にも。

大五郎さんの舞踊、近い距離で目を合わせて、客ひとりひとりに挨拶するみたいなステージだったもん。

好太郎さん、お客さんにまるで親戚か近所の知り合いみたいに喋りかけてたもん。


長い時間をかけて人生を一緒に過ごして、みんなで子供たちの成長を見守って、声掛けて、またねって笑い合うみたいな、おっきな親戚みたいな。

演者と観客のラインが限りなく曖昧で、ハンチョウがあって、笑いと拍手があって、普段の関係と配役とのギャップをみんな知っていて、初めて完成する舞台。

去年はそれを「吉本新喜劇みたいな」って表現しました。


でもさ、新宿と大阪で演った朱雀は、その「地続き感」があんまり無い世界だったんですよ。

初見のお客さんも多くて、お花タイムもほとんど無くて、ハンチョウは多少かかるけど、我々は舞台を見上げる観客のひとりでしかなかった。

そんで、わたしはそんな新宿大阪の朱雀じゃなくて、ぎふの朱雀に溶けたんですよ。岐阜にしか無い何かがあったの。


太一さん自身が「大衆演劇をベースにして」って表現してたと思うんだけど、ここで言う「大衆演劇」って、ショーの形式でも演目でも3部構成のことでもなくて、なんていうか、きっと大衆演劇の劇団だというバックボーンのことなんじゃないかなあって、いまは思っています。


みんなに見守られながら育ってきたその環境。

昔から一緒にやってて、家族で、そこで生きてきた、その人の人生。

大衆演劇」と名乗る以上、人生っていう背景が、ステージ上にはじめから存在する。

ほんとうの親子、ほんとうの兄弟、昔からの仲間、昨日の演技、最近の体調、そうしたメタ的な要素が、みんな知ってる大前提として舞台の上に横たわっている。

その役が他でもない陽之介さんであることが、それだけで拍手する理由になる。


そういう意味で大衆演劇って、ほんとに他人の人生が織り交ぜられたコンテンツなんだなあ、と思います。

そのひとの過去も、失敗も、成長も、役者同士の関係性も、昨日の芝居すら、これまでの人生ぜんぶが今日の演目になる。

劇団を、その人を、座組みを、知れば知るほど、今日の演目が楽しくなる。

詳しくは知らなくても、嫌でも(全く嫌じゃないけど)目に入るんですもん。背景だから。


新宿大阪の復活公演とか、今回の配信とか、役者単体のネームバリューだけで飛び込めちゃう環境に、「大衆演劇」を持ち込むには、やっぱり色々寄せていかないといけないんですよねきっと。

須賀くんとの関係とか、トミーのMCとか、曲中の合いの手とか、そういうところで少しずつ座組みのメタな知識が蓄積されていって、わたしたちは少しずつ「大衆演劇」に組み込まれていく。

岐阜は、その劇団朱雀という人生の背景がより濃く出せる世界で、だから、ちょっとくらい好き勝手しても、みんながその人の過去と人生と、仲間との信頼関係を知ってるから許される場所なんだよね。

普通は喧嘩してたら止めに入るけど、あの2人はいつもあれだからいいのいいの、みたいなさ。そういう共通言語がある世界。


だから岐阜がすきなんだよお。

自分の人生を背景として背負って、昨日まで、さっきまでの過去すべてと、そこにいる人たちとの関係すべてを「いま」に昇華させながら、目の前で、にんげんが全身で全力で限界まで何かを表現している姿に、惹かれないわけがなくないですか?



結局はじゅわっとしたい

こうやって長々と書いてきて、ようやく自分の中で納得がいった気がする。

というか、ほんとに、今更言語化するほどでもない、何万回も言われてきた結論でしかなくて、ほんとに脳が溶けていただけでは???

特に千穐楽、いろんな好きと心配と驚きとが絡まって団子になって喉に詰まってたよね。


ほんとは理由なんて何でも良くて、脳がじゅわって溶けるような、心がギュンと鳴くみたいな、あの麻薬みたいな感覚が忘れられないだけなのかもしれない。


でも彼らにとって、あそこはなによりも人生で、生きる場所そのもので、あまりにも命を懸けて向き合っているように感じてしまって、だからこっちも、簡単に「綺麗だった」「楽しかった」で済ませるわけにはいかなくて、こんなお気持ち表明エントリが生まれてしまいましたとさ。


なんだかんだ言って、去年のぎふ千穐楽のエントリにも同じようなことが書いてある。

帰り道に同じく朱雀ビギナーのフォロワーと話してたんだけど、岐阜の朱雀、めちゃくちゃ「生きてた」んですよね。完成されたステージを「観てる」というより、彼らの生き様を「見てる」んですよ。

新宿ではいくら客降りがあろうと舞台と客席の間に確かに境界線があったのに、岐阜には境界線なんて無かった。拍手が入る余白を、笑い声が収まる空白を、ハンチョウが飛ぶ間合いを、はじめから織り込んだ構成だったの。板の上と客席の共通認識としてのお約束がいくつかあって、キッチリ踏襲して、客席を巻き込んで進んでいくステージ。

大阪人のわたしはこの構成を知っている。吉本新喜劇と言います。いやほんとに。舞台の構成としてはそんな感じだった。生々しくて、危なっかしくて、でも圧倒的な生命力をもって語りかけてくる舞台。


なんだよ、ちゃんと分かってんじゃん!なぜいつも分からなくなってしまうのか。

それはね、すきなものを浴びすぎて脳がじゅわって溶けるからだね。ポンコツすぎる。


それぞれの演目の話もちゃんと残したくて、でもたぶん日記みたいなバラバラな記述になりそうだから、このエントリの後半にまとめようと思ってたんですけどね。

分かりきったことを言語化しただけで、いつのまにか6000字を超えてしまったので一旦畳みます。


ほんとに未来の自分への処方箋みたいになっちゃった。

次に脳がじゅわってしても混乱せずにこれ読んで落ち着いてほしいな。