ずいぶん経っちゃったけど、「今年は観たら書く」の誓いでちゃんと書きます。
八月納涼歌舞伎!!!!!!
涼しげで、楽しげで、暑さをふきとばす夏の歌舞伎座。大好きな巳之助さんと、はやく観なきゃと思ってた染五郎くんが、なんか知らんがめちゃくちゃ出てくれたのでひさしぶりに歌舞伎座で通しました。
めっちゃくちゃ良かったけど、流石に疲れた。
第一部
ゆうれい貸屋
巳之助さんって舞踊がめちゃくちゃお上手で脳がとろけるほど大好きなんですけど、お芝居がほんとに良いんですよォ!!!!!って全力で叫びたくなる演目でした。最高だよォ!
弥六って、役柄としては全然冴えないし、かっこいいとこあんまないし、地味だし、でも、ほんとうにとってもお芝居がうまくって、わたしが観たい巳之助さんの芝居がギュッと詰まった演目だった。
最高だよォ……
普段はね、わりと指先まで行き渡った上品で丁寧な芝居をする印象のひとなのに、粗野で雑で怠け者の役が、しっかり粗野で雑で怠け者なんですよ。喋り方とかじゃなくて声色からぜんぜん違うんだよね。喋り出したとき聞き慣れないオッサン声でびっくりしてしまった。意味がわからん。
それなのに、ふっと見せる哀愁とか憂いとか、その「ふっ」と感情が滲み出る瞬間の瞬発力と存在感とグラデーションがすごく丁寧に扱われていて、もうねえ、ほんと、観にきて良かった……
巳之助さんの、なんて言うんだろ、歌舞伎役者としての芝居の所作?荒事?とかそういうのももちろん大好きなんだけど、わたしがこの人のこと好きになったきっかけってスクアードなんですよね。ワンピース歌舞伎の、ゾロでもボンちゃんでもなくて、三幕で白ひげを裏切って背中から刺しちゃうスクアード。原作ではあまり描かれなかったスクアードの迷いと決意と後悔と悲しみと、そういう「知らなかったけど絶対ある感情」をすごく丁寧に描き出すひとだったの。だから好きになったんです。そのあとたぶん新春浅草歌舞伎あたりで舞踊を観てじゅわじゅわに溶けたわけですが……
このひとの繊細な演技が、感情の細やかな発露がね、ほんとにほんとうに好きなんですよ。ちゃんと前後の人生の積み重ねを感じさせる「こころのうつろい」を描いてくれる演技が、ほんとうにすき。それがぜんぶ出てたのがゆうれい貸屋でした。
2021年の外部舞台「消えちゃう病とタイムバンカー」を全公演中止にしやがった新型コロナのことは末代まで恨んでやる、と思っています。全部飛んだので映像にすら残っていないなんて辛すぎる。いつか外部舞台でもちゃんと観られるといいなあ。
幽霊チーム(チーム?)はみんなおててがさりげなく自然な感じで幽霊してて可愛かったです。
児太郎くんの染次はさすが人を祟っているだけあって倫理観が絶妙にズレていて、それをあっけらかんと明るくにこやかに主張するから全く憎めなくって、こういう押しの強い女房って感じの女形ひさしぶりに観た気がする……
ときおりドスの効いた素の声が入ったりして、巳之助さんとの距離感とか掛け合いの間合いとか、ちゃんとコメディとして完成してるのがよかったなあ。楽しかった。あのユーモラスなパートがあるから、突然ギュッと哀愁に寄るシーンが映えるんだよなあ、きっと。
押しに弱くてへにょへにょの勘九郎さんもとてもよかったです。なんか配役がめちゃくちゃ豪華なのはやっぱり八月だからなのかな。あんまり慣例とか分かんないけど……
鵜の殿様
こちらはこちらで楽しみにしていた、初の市川染五郎くん観劇です。なんつうか……こんなに貫禄と自信に満ちた19歳、こわ……
明るくて華やかでテンポが良くて楽しくて、面白おかしく観ていられる舞踊演目。これってつまり一種のパントマイムなんだな……とぼんやり感じた演目でもありました。
舞台に板が敷かれると問答無用でワクワクするよね。ダンッて足踏み鳴らすやつ、めちゃ好きなやつです。踏み鳴らす直前の予備動作と直後の反動が小さければ小さいほど好きです。
舞踊演目なのでいつもながら感想と文字数は噛み合いません。解散!
第二部
梅雨小袖昔八丈 髪結新三
びっくりした。わたしはニワカなので十八代の勘三郎丈を生で見たことがないのですが、喋り始めた勘九郎さんの声があまりにそっくりだったので……
悪巧みをする勘九郎さん、「人の良い兄ちゃん」感が1ミリも表に出てこず、頭からつま先まですっかり悪漢だったのでニコニコしてしまった。
そしてSNSでの前評判のすこぶる良かった巳之助さんの勝奴。刺青入りの男二人暮らし、料理をはじめ身の回りの世話を一手に引き受けている勝奴。綺麗に片付いた部屋、手入れされた台所道具、お茶を淹れる優しい手つき、干すときにちゃんと揃った手拭いの四角、たばこをそっと押しやる控えめなしぐさ、湯呑みや膳をテキパキ片付ける段取り。
丁寧な暮らしができるほうの巳之助さんだ……!!!
歌舞伎って、なんでもない会話の後ろに「生活」があるのがめちゃくちゃ好きなんですよね。羽織を脱いで、掛けて、草履を脱いで、下足を整えて、着物の裾を捌いて座って、お茶を淹れて、飲んで、煙草を吸って、てぬぐいを仕舞って……
そういう「役として過ごす日常」が、ベテランになればなるほど「自分の日常」みたいに染み付いていくから「自然な演技」になって、深みと重みが増していくんだろうと思う。
そんで今回、新左の家の暮らしが、ほんと、まじで、ちゃんと「暮らしていた」のがめちゃ好きでした。
艶紅曙接拙 紅翫
びっっっくりした。勘太郎くんってすっかり若手役者なんですね!!!!!
新春浅草歌舞伎でもお馴染みの橋之助くんを中心にした舞踊演目。これぞ歌舞伎の様式美ですよ……すき……
歌舞伎って、こうやっていろんなひとが一堂に会して踊る演目が多いけど、さまざまな生業のひとが集まっているの、面白いなと思う。
そして踊りでそれぞれの仕事を表すの、ほんとに面白いなと思う。今は「昔はこんな仕事があったのか〜」って観てるけど、当時の観客はどういう気持ちで観るものだったんだろう。
あと、必ず「働いている女性」が出てくるのも面白いなって思います。職業の貴賤とかジェンダーについて語るつもりは微塵もないのでこれ以上掘り下げないけど。
第三部
狐花 葉不見冥府路行
京極夏彦原作の新作歌舞伎!ミステリはわりと好きだけど、わたしは京極作品をいちども読んだことがありません。京極堂シリーズ読者の感想を軽く聞いてから観に行ったので、文化の融合というか、新しい試みというか、そういう工夫をぼんやり感じた結果、わたしが歌舞伎で何を観たいと思っているのかがちょっと明確になるきっかけの作品にもなりました。
あと、染五郎くんがわりと年配の役(25年前に既に成年しているので40代くらい)だったんですけど、めちゃくちゃ「おっさん」に見えてびっくりした……鵜の殿様で踊ってた若い子とほんとに同一人物???役と実年齢で言ったら幸四郎さん(中禪寺25歳)と逆だよ……歌舞伎ってすごい……
原作小説と歌舞伎
そもそも歌舞伎って、もちろん新作はあるものの、基本的には「みんな知ってる話」を演じることが多いと思ってるんですよね。しかも今回はこのシーンだけ上演しますとか、往々にしてあり得る世界。
そういう文化の芸術で原則ネタバレ禁止の「驚きのトリック」モノのミステリを演るのがまず難しいよね!!!!!これは非難ではなくて、「違う文化の芸術を融合することって難しいよね(いいぞもっとやれ)」です。
今回の狐花も正直、違和感を抱く部分も多々あったけれど、全く違う二つの文化を融合しようと挑戦してんだから多少は仕方ないんだろうなあ、という印象です。とはいえイマイチと感じる部分はあるので次に活かしてほしいですが……
文化の違いって意味では、圧倒的な会話の応酬で情報を畳み掛けられるのは、テキストならではの技術ですよね。小説を読んだことがないのでいろんな人から聞いた話での想像になりますが、京極作品の良さってきっと小説という芸術だからこそ映える魅力なんじゃないかと思う。
歌舞伎は逆に演者に台詞が無くても長唄と所作で成り立ってしまう芸術で、もちろん長台詞が有名な作品ってあるけど、アレって七五調のリズムが肝なんじゃないですか?(ニワカ)
そこに現代語の長台詞を合わせるのって、是非とかじゃなくて、シンプルに難しいよね、という感想です。
歌舞伎に寄せたであろう一幕は、たぶん京極さんの物語の進行としてちょっとテンポ感に欠けたのだろうし、小説に寄せたであろう二幕は、歌舞伎舞台としての動きが少なくてちょっとテンポ感に欠けたように感じた。
逆に言えば、一幕は登場人物とか演出とかがうまいこと歌舞伎の世界観に寄っていたし、二幕は怒涛のセリフ量でたぶんこれが京極作品の世界観なんだろうと思う。
両極にあるような芸術性を一歩二歩と歩み寄らせて一つの作品にしてるのはシンプルにすごい。京極夏彦はもっと歌舞伎に寄せようとしたらしいんだけど、拒否して怒涛の情報量を確保したらしい幸四郎さん、京極堂めっちゃ好きなんだな、と思いました。
現代劇ではなく歌舞伎であることの意義というか、現代劇と歌舞伎の違いというか、歌舞伎の見どころというか、とにかくわたしがわざわざ歌舞伎を選んで観るのって、その所作が観たいからなんですよね。異論は認める。
所作事に限らず、伝統芸能として脈々と受け継がれてきた技術を観に行っている。それは動きであり、化粧であり、衣装であり、言葉であり、リズムや立ち回りや書き割りであり、舞台上に再現される当時の生活の風景でもある。
こういう「わたしの見たい歌舞伎」はわりと省略されてしまった側にあったのが狐花でした。うーん、残念。
それでも随所に「歌舞伎らしさ」を残していたのは感じたけれど、「現代劇に歌舞伎っぽさを加えた」ぐらいの温度感だったので、歌舞伎座以外のハコだったらもっとスッと観れたかもしれないなと思いました。
狐花の「歌舞伎らしさ」
全体的に盆舞台での場面転換が多くてちょっと待ち時間は長かったけど、大ぜりの彼岸花は壮観だったし、火事の表現もすごい好きだった。
一幕のだんまりは、突然中禪寺さんが出てきてよくわからんけど、なんかキャスパレみたいで面白い使い方だなと思いながら観てたんですけど、イヤホンガイドでも「ここは少し本編から離れて、だんまりという歌舞伎の〜」って言ってたのであれはキャスパレでいいのかもしれない。
ただ、もうちょっとぶつかりそうになったり、避けたり、分かりやすくても良かったんじゃないかとは思いました。
そもそも歌舞伎を前提に書いた話だから、話の肝になるのはやっぱり七之助さんなんですけど、これってきっと京極さんが「演劇ならでは」のトリックをわざと選んだんだろうなあ、と思いました。男性が女性を演じることも、一人が二役演じることも「当たり前」だから、まさかそれがギミックになってるだなんて誰が思うんだよ。
そこのネタバラシがもうちょっと派手に歌舞伎っぽくあっても良いんじゃないかとは思いましたけどね。なんか、どのタイミングで「まさか!」って盛り上がれば良いのかちょっと掴みかねた。
そう、二幕は全体的に歌舞伎の所作もほとんどなくて、ほぼ現代劇だったんですよねえ……
そう分かって観ればぜんぜん観れたんだろうけど、昼から通してしまったのもあって「歌舞伎を観る」って感覚にチューニングしてしまっていたから、ずっと会話だし、見得もないし、ツケもないし、大向こうもほとんど無くて、どこに焦点を当てれば良いのかよく分かんないままラストまでぼんやり進んでしまった印象でした。
歌舞伎という演劇としてのの盛り上がりと、小説という物語としての盛り上がりがうまく一致しなかった感じ。
歌舞伎が持つ性質と演出を組み込んではいるものの、「この配役である必要はあったけど、別に歌舞伎じゃなくても良かった」作品だなと感じてしまいました。
うーん、やっぱり文化の融合って難しいよね。