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気付けばハマる、そこは沼。劇団☆新感線を中心にお芝居について好き勝手書き連ねる場所。

【ネタバレ注意】トラウマへの処方箋【フェイクスピア】

待ちに待ったフェイクスピア、東京千穐楽で観てきました。結論から言うと、ちょっとしたトラウマを正面から浴びたので、楽しむより前にダメージを受けました。

しんどすぎて涙も出なかった。

芝居の感想も喉の奥で渦巻いてるけど、それよりも実際の事件に関する話を一旦吐き出したくてエントリを書いているので、各自自衛してください。

これはわたしがわたしのために書く処方箋です。文体も内容も、いつもとは全然違ったものになると思う。



ネタバレはちょっと踏んだ


最後のひとつはほんとに「日航機」ってワードだけ目に入ってすぐ閉じたから前後の文は読んでないんだけど、これ踏んでなかったらわたしは生きて戻ってこれなかったと思う。

照明がついた瞬間、ラストを悟って覚悟できた。

観て良かったとは思ってるけど、125分、ずっと苦しいお芝居でした。



その事件とわたし

別に知り合いが123便に乗っていたわけでもないし、リアルタイムで見ていたわけでもない。そもそも生まれてない。


わたしが初めてあの事件を知ったのは、たぶんドキュメンタリー番組でした。再現VTRがあるような、よくあるやつ。言い方が悪いけど、よくある番組の、よくある悲劇だった。


それがトラウマになったのは、それこそボイスレコーダーかたちのない言葉。声。

たぶん、まだ小学生だったと思います。わたしが日航機のボイスレコーダーの音声を、全部聞いたのは。


その日は家に誰もいなくて、一人でPCに向かっていた。自分で検索したとは思えないし、たぶん当時流行ってた「面白フラッシュ動画」で見つけたんだと思う。 懐かしいですね。

あの頃YouTubeはまだ無かった。動画が載っていたのは、どこかの個人サイトだったように思う。


ボイスレコーダーをノーカットで流しているらしいその動画には字幕が付いていて、英語の部分も理解できたし、画面には地図が表示されていた。飛行機がどこを飛んでいるのかルートを辿りながら、レコーダーの音声が再生される。そんな動画だった。

音声を聞いた人がいたらわかると思うけど、雑音が多くて聞き取れないところも、無言のところも多い。小学生にとって30分の動画はとても長くて、それでもなぜか怖くてスキップできなくて、最後まで一言一句聞いていた。


だから知っているんです。フェイクスピアでは再現されなかった部分。高橋一生ブラックボックスを抱きしめて独白で続けた最後の数秒。

ほんとうは、そこにはまだ言葉があるんです。

人が亡くなる直前の、ほんとうのほんとうに「最期の言葉」を、わたしはあのボイスレコーダーで聞いた。

再現VTRの声とは全然違う、ほんとうのことのは。それは、人が命を諦める瞬間の声でした。


それまで30分以上、ずっと力一杯、ギリギリまで諦めずに戦ってきた彼らが、最期の最期に一言だけ漏らした、諦めの音。

人が死ぬ瞬間のナマのことばなんて、後にも先にもこれ以外聞くことはないでしょう。

20年前に聞いたきりなのに、ずっと忘れられない声。それくらい衝撃で、ある種のトラウマになりました。

あれが今回台詞になっていなくて、本当に良かったと思った。



ノンフィクションと「ほんとうのことのは」

日航機」のネタバレを踏んだ瞬間は、まだ特に深い意味を感じてはいませんでした。

思い出してなんとも言えない気持ちにはなったけど、あの出来事を題材にしたものはたくさん観てきたし。

あれから再現番組も、遺族のドキュメンタリーも、御巣鷹の追悼番組も、映画「クライマーズハイ」だって観た。


でも照明がついた瞬間、高橋一生が箱を抱えていたから。「言葉」を掲げたこの作品に、「日航機」が関わっていて、主役が「箱」を持っている。

その時点でもう結末は決まってる。


あのブラックボックスの中にある「現実のことのは」を、ノンフィクションというパンドラの箱を、野田秀樹は開けようとしている。

演劇というフィクションの世界で、ノンフィクションのことばを使おうとしている。

四大悲劇も敵わない、現実の悲劇を上演しようとしている。


「頭下げろ!」「頭を上げろ!」と高橋一生が怒鳴り声を上げるたびに、ボイスレコーダーの音声がよぎって苦しくなった。

きっと彼もレコーダーの音声を聞いたんだろうと思う。何度も、何度も。

あの人たちの最後の言葉を、身体に叩き込んだんだろうな。そう思わせる声色でした。とても似ていた。


高橋一生は板の上でずっと、人が死ぬ間際の音声をひとり再生し続けていたんです。誰にも気付かれずに。 あの苦しい叫び声が、そうと知られず、何を言っているんだと馬鹿にされながら、あの人は死を目の前にした人の「ほんとうのことのは」をずっと叫んでいた。

しんどすぎる。


橋爪功と二人で再生される四大悲劇は、誰が観ても「何かを演じている」のだとわかる。あの作品を知らなくても、役名を知らなくても、あの言い回しで演劇なのだとわかる。死と向き合う人の叫びが、嘆きが、台詞に乗って聞こえてくる。

それなのに高橋一生がひとり再生するボイスレコーダーの声は誰にも聞こえない。森の中で一人きりで話しているように、そのほんとうの意味に誰も気付かない。あの言葉こそが死と向き合う人の「ほんとうのことのは」だったのに。



所詮はフィクション

ここからは守備範囲外なのであんまり消化できていないところ。

わたしはシェイクスピアNODA・MAPもあまり履修していないので…


これまでNODA・MAPをそんなに観たことがないけれど、野田秀樹はそれこそシェイクスピアみたいな古典劇や、その婉曲表現、「言葉」や「台詞」を特別大切にしている人だという印象でした。


それなのに。

シェイクスピアの演劇はフィクションであって、「ほんとうのことのは」ではない、と言っているように聞こえる。


フィクションの大作「星の王子さま」に対しても、登場人物だから息をしていない、というようなことを言わせる。(細かくは覚えてないけど)


とにかく、偉大なるフィクションの名作に対して「所詮フィクションだろ」という陳腐な永遠の敵と真っ向勝負させている。


手紙が廃れ、メールすら廃れ、短文のSNSが主流になったこの世界では、言ったもん勝ち、バズったもん勝ち。

140字でうまいこと言えば、それが真実だろうが嘘だろうがリツイートが伸びて「世の中のほんとう」のように発言権を増していく。


そんな世界でわざわざ「つくりもののことば」を扱う演劇は、一体なんなんだろう。

時には大袈裟で、回りくどくて、意味深なフィクションの言葉は、この世界でどんな意味があるんだろう。

そんな問いかけをぼんやりと頭の隅で考えていました。



フィクションの持つ「ほんとうのことのは」

それでもフィクションの力を信じている。それが今回の「フェイクスピア」だったように思います。


地下鉄の駅のホームにあるベンチに座った男もハムレットと同じ悩みがあるし、星の王子さまはやっぱり大切なことに気付かせてくれる。


ブラックボックスの中に横たわっていた圧倒的な「ほんとうのことのは」だって、フェイクスピアというフィクションがなければ気付かれることはなかった。

聞いても知らなければ「ゲームの実況?」と言われてしまう言葉たち。「頭を下げろ!」と何度言ったって、劇中で誰にも気が付かれなかった言葉たち。


フィクションは、落ち葉の中に埋もれてしまった「ほんとうのことのは」を、丁寧に探して、掘り出して、見つけてくれる存在なんじゃないだろうか。

圧倒的なノンフィクションも、そのノンフィクションをフィクションの世界に織り込むことで、より大きな力を持つ。


そして今回一番大事にしたいなと思った気付きは、フィクションはノンフィクションを解釈することができるということでした。



フィクションが生む高橋一生の笑顔

ノンフィクションは、あのボイスレコーダーの声が全てです。息子への想いも、人々へのメッセージも、何もない。

無責任な想像は誰かを蔑ろにするかもしれないし、誰かを傷つけるかもしれない。

でも、フィクションならそれができる。


あの言葉たちを解釈した作家が、想像した人生を、創造した人生を、再生することができる。

それは一種の救いで、励ましのことば。


存在しない「死にたい息子」というフィクションを通して、あの音を、凄惨な事件の記録ではなく、息子への愛の言葉として再生した。

イタコ昇格試験で、暗闇の中、何も言わずにただ息子に寄り添って去っていったパイロットは、ただ「父」として息子を案じていた。

「頭下げろ!」と怒鳴っていたパイロットは、坂の向こうに消える瞬間、生きると決めた息子を見て幸せそうに満面の笑みを浮かべていた。(そうだろうと思ってオペラで抜いたら思ってた以上の笑顔に迎えられてキュウッとなった)


フィクションは、現実の解釈を再生することができる。

ノンフィクションに、誰かのための意味を持たせることができる。


「フェイクスピア」で描かれた「ほんとうのことのは」は、結局あのレコーダーの言葉そのものではなくて、その言葉たちを解釈して生まれた「生きろ」というメッセージだったのかな、と、このエントリを書いている間にそう思えるようになりました。



スタンディングオベーション

終演直後はほんとうに気持ちがしんどくて、千穐楽のスタオベも早く切り上げて逃げ出してしまいたかっんだけど、あの時たくさん拍手を送っておいて良かったなと思います。


去年「天保十二年のシェイクスピア」が飛んでしまって観られなかった高橋一生のお芝居。

とても繊細で、丁寧で、真摯なお芝居でした。倒れたときは本当に気絶してるんじゃないかという倒れ方だったし、「天国と地獄」でも見せた女性の演技もナチュラルすぎてびっくり。

ますます天保が観てみたかったし、また板の上に立つのなら観に行きたいと思います。


橋爪功を板の上で観るのはたぶん初めて。たぶん。

等身大の姿から王、将軍、子供まで、あれだけの幅をナチュラルにシームレスに演じ分けていくのは圧巻でした。

虚構を重ねに重ねて混沌としたあの世界で、いつだって妙に現実っぽさを感じさせてくれたのは、この人がいたからだと思います。


そして白石佳代子。白石佳代子ではじまり、白石佳代子で終わって、初めてこのフィクションはフィクションとして成立する。

登場人物の中でただひとり、死者の夢に入らずに現実だけを生きているひと。アレもコレも全て夢なのだと明示してくれる屋台骨。

そしてこの、白石佳代子のイタコがフィクションだから、「フェイクスピア」はフィクションでいることができる。存在がフィクションであるイタコが「フィクションの中のフィクション」を明示する物語。

うまく言えないけど、とにかくフィクションとしてのフェイクスピアを支えていたのが白石佳代子だったのだと思います。本当にこのひとはすごい。

秋にムサシのチケットを取ったのでとても楽しみです。わたしの観劇人生はじまりの作品。


たくさんの人の命を背負い、この状況下でひとまず東京を最後まで駆け抜けたフェイクスピア。

みなさん本当にお疲れさまでした。

この後も最後まで走り続けられますように。


自分のための処方箋、これにて完結です。


奇しくも現在、日航機のボイスレコーダー公開をめぐった訴訟が行われているそうです。

20年前から出回っている音声は公式なものではなく、いわゆる「リーク」された非公式のものだったそうで。

遺族の方々が、事件の解明のために公式な音声データの公開を求めておられるとのこと。


その音声が事件解明の「ほんとうのことのは」なのかどうかは、わたしには分かりません。

遺族のみなさんにとってはそれが「ほんとうのことのは」になり得るのかもしれません。


少なくとも、今も苦しんでいる誰かのところに、どんな形でもいいから「ほんとうのことのは」が届けばいいなと思います。

それは残された声かもしれないし、演劇かもしれない。星の王子さまの台詞かもしれないし、誰か知り合いの言葉かもしれない。

無機質で無責任に吐き出された言葉の断片なんかじゃなく、誰かを愛し、その身を案じる「ほんとうのことのは」が、あらゆる人に届くことを願っています。